そろそろ「独り言U(67)」へ参りましょうか。
「空気を読む」といったコミュニケーション技術があるといわれそれを分析しようとされている方が居られることを知った。ただ、言語化可能なことよりも言語化できないことのほうが生きていくうえで多いような気がする。人は言語に頼って思考し伝達しているかのように錯覚しているが実際は非言語の世界で生きているのではないだろうか。「空気を読む」といったことは非言語の世界ではむしろ当然のことであり「はじめに言語ありき」といったことを改めて考察し直すときではないのだろうか。その考察は言語によって可能なのだろうか。
「その言い方が人を怒らせる(ことばの危機管理術)」(加藤重弘広著:ちくま新書)を読み始めました。ロゴスとパトスか・・・・。
組織が大きくなるほど組織の長は何もできないのかも知れない。「鶏口牛後」という言葉もある。いずれにしても組織の長は一人しかいない。
PCでワンセグTVを見ながらTwitterをするといった生活。TVはそのうち飽きるだろうが結構PC上で番組表を見ることができたり録画予約ができたりたった1,000円台で楽しめる(主として料理番組を見ています)!!そういえば我が家のTVはまだ地デジ対策していない・・・・。
「東日本大震災から早三箇月が過ぎ」「五月病にもかかったし芽吹くころの気の病もやったと」「自分では思っているが」「いまだに梅雨空のように」「心が晴れない日々」(紫泉)
今春はいろいろな地域で新しい役員に就任した仲間たちがいます。皆責任ある立場の役員になったわけですが是非組織に押し潰されることなく伸び伸びとご活躍下さい!!期待しています。
いまさらなのかもしれないが無線LANを設定したので概ね家の中ではどこにいてもPCがあればワイヤレスでネットができる環境が整いました。細かい設定に関することは理解していないのですがほぼ勝手に(自動)設定完了したといった状況でした。改めてパソコン機器(設定)の進歩を感じました。登記供託オンラインシステムももう少し進歩してくれると嬉しいな(^_^)。
心情を5行で表現する「五行歌(詩)」という手法があることを知った。けっこうtwitterと相性があいそうな気がしています。
日本土地家屋調査士会連合会HPの「会員のページ」に「e−ラーニング」が開設され講師の話を自宅(事務所)で受講することができるようになりました。現在お二人の講師(松岡会長・小野会員)による研修を受講可能ですが今後の発展充実を期待したいと思います。
「批判はしたけれど自分にできるだろうか(相田みつお)」・・・・・。
「小さな資格大きな利益」と揶揄されていたことを知ってか知らずかバブル崩壊後もどうにか生き延びてきたことに起因する楽観主義は残念ながら排除するときがきたと思わざるを得ない。不動産登記法の大改正(一説には100年ぶりといわれている)に伴う土地家屋調査士法の改正によって「筆界が不明なことに関わる民事に関する紛争に関与すること」が民間調停(ADR)を通じて一定の条件のもと可能になったにも関わらず(既に6年ほど経過しているが)未だ大半の会員が参加しようとしない現状を非常に残念に感じている(私の所属会に対する感想)。特に今まで「小さな資格大きな利益」の恩恵を長きにわたり受けてきた表彰を受賞したような会員のほとんどが民間調停について知らぬふりを決め込んでいるのが実情である。にもかかわらず「筆界」については我々(恩恵を長きにわたり受けてきた表彰を受賞したような会員)にしか出来ないとおっしゃるところの矛盾。少なくとも私には訳が分かりません。
(民主主義の下での)組織は少数者が運営する方法と代議員制のように構成員の意見を反映しながら運営していく方法がある様に思う。
規模や目的にもよると思うが私の所属している(強制会である)土地家屋調査士会は後者の状況に変化してきている。ただ、ここ1・2年の傾向であるが構成員である一般会員からの意見がほとんど会議の場に提出されなくなっているように感じている。
原因はいろいろ考えられるが、一般会員の問題提起が実際に取り上げられ解決に向かうと言った事案はかなり少ないのが実情である。(問題が大きすぎて単位会レベルででは交渉すら出来ないとの事情もあるが、そうであるならば上部組織の関東ブロック会・日本調査士会連合会などに働きかけていただきたい。)そんなことが続くと会員は問題の提起すらしなくなっていく。
日常の業務上の困りごとから土地家屋調査士制度のこと、法務局に対する改善依頼の議論などなどやがて語る気力すら失っていく一般会員が増加していく。
すなわち改革・改善・改良といった分野の思考を停止するのだ。(結果としてさせられていると私は考えるが)
その結果自然と代議員制は内部から崩れていかざるを得ないのではないかと危惧している。すでに調査士会(私の所属会の場合)の理事の多数は、各支部からの当番制によって選出されている。このこと事態すでに代議員制が形骸化しつつあることではないかと感じている。(ある意味地域共同体の弱体化)ならば、会長なども当番制にするのも一つの考え方ではないかと思う。(★ブログの内容を転載)
Iいつの時代にも「現実派」 と「理想派」の対立議論はあるのだろう。しかし「鶏卵どちらが先議論」ではないけれどなかなか悩ましい問題でもある。現実にご飯が食べられない状態をなんとか打開しろ!という考えも理解できる。制度改革と進展が無ければご飯の議論している場合ではなく生業自体消えてしまうだろう!といった意見も理解できる。本当は制度改革進展を計りながら現行に近い制度を利用してご飯を食べていくことが出来れば良いのだが、事態はそれほど」悠長な状況には決して無いと思います。どちらにしても最悪の状態を想定しての危機管理は必要なことだと思います。
この頃余分なことを考えすぎて気が付いたら仕事が結構溜まってしまった。今週中に申請可能なものはどんどん処理しないと先に進めない。毎日「BEER
now!」もよいが仕事を処理しないとそのうちBEERが買えなくなってしまうかも。さてと、オンライン申請(添付書類に電子署名するのが楽しい)に励もう(^_^)。
しばらく音楽を忘れていたかのような生活だったが書斎の机の傍らにオーディオ機器を設置した。ハイデッカーの音についての(言葉も音に入るのかも)考えに接して音楽(音)がとても愛おしくなった。音は生まれて直に消えていく・・・。それを必死に存在として残そうとする人間の営みの中でテープデッキを持ち出して過去のぬくもりを含めて音楽を(音・記憶など)保存したいと思う(企てている)自分がいる。思い出や記憶も今まさに損じしてはいないが脳というハードディスクの一部分に保存されているかすかな残骸。
土地家屋調査士会支部役員を終わったので思い出といったら失礼かもしれないけれど、多くの音楽家に出会った気がする。私が影響を受けたかたがたは、ディスクに保存しておきたいと思うがそれすらかすかな残骸かも知れない。
ただ、今を共有したくてまた電話していいですか?頑張ってください!!
ラジオ体操を始めました。少しずつ少しずつ・・・・・。
東日本大震災後の政府や国会のどたばたは平時ではないのだからさもありなんと理解できないわけではない。しかし昨日の内閣不信任決議騒動については一般の国民感情から言えばいったい何だったんだろうか。よく「永田町の常識は国民の非常識」と言われるがまさにそのとおりである。国民は選挙という手段(かなり限定的だが)以外に永田町の住人を選択する機会はない。選挙が終わると政治は国民の手から離れるものだと言うことを胆に銘じておけば日々憤慨することもない。だが、民主主義によって国の運営者あるいは代表者とみなされた人々と国家が蜃気楼のように私には映る。
震災後しばらくTwitter・ブログなどお休みしていましたが少しずつ復帰していこうと思います。
ホームページもおかげさまで5月で8年目に入りました。延16,800名の方々に訪れていただき感謝しています。ホームページやブログ、Twitterなどを通じて少しずつ友人が増えつつあり嬉しく思っています。今後とも宜しくお願い致します。
台風は熱帯低気圧になりましたが被災地の雨が心配です。
土地家屋調査士会の総会も終わり新体制でのスタートです。今年は役員改選期で会長選挙が行われました。選挙に先立ち疑問に感じていたことを総会の席で質問し執行部答弁のあと議論をさせていただきました。
最近毎日パン作りをしています。250gの強力粉で9個の小さいパンを作ります。9個の理由は家族3人が食べると言ういたって簡単な理由です。焼きたてパンは非常に美味しいものです。アメリカの食の戦略にしてやられた(私はコッペパン&脱脂粉乳給食世代)と思いつつコーヒーを片手にJAZZを聞きながら美味しいパンを楽しんでいます。ときどき民主主義を懐疑しつつ・・・・・・。
「みんな」について懐疑することも必要な時期に来ているのではないかと感じています。「みんな」的な考え方について考えることはデモクラシーについて議論することと似ているのではないかと思います。
心地よい日々が続いています。半年以上休んでいたポタリングを開始しました。(5月18日)
共同体「代表者」の正当性は必ずしもルールによっているわけではない。しかしだからといってでたらめで有って良いということにはならない。ルールが有る共同体で「代表者」になろうと考えている者は前提としてルールに従うことが先決である。ルールの解釈によっては正当性に少なからず疑問が生ずるときは自らその正当性を明らかにする必要があると思う。そして大多数の共同体構成員がその正当性を支持し認めたとき始めて「代表者」になろうとする資格を与えられるものではないのだろうか。
選考委員会などによる間接的に決せられる「代表者」と直接選挙による「代表者」の重み(権力)は当然異なる。たとえ共同体といえども直接選挙によって「代表者」を決する場合はより厳格なにルールを遵守する必要があると考える。
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