平成21年8月6日 土地家屋調査士ADRに関する雑感(U) 入江氏の論文について感じたこと 静岡県土地家屋調査士会会員 認定土地家屋調査士 宮 澤 正 規 「私的自治の時代」という題のブログを開かれている入江秀晃氏(ADR研究者)の読者の一人としてまた(社)日本仲裁人協会のメンバーとして「自主交渉援助型調停と法の接点」(仲裁・ADRフォーラムVol.2・P63から(日本仲裁人協会編))という論文に接しADR運動を推進している認定土地家屋調査士として感じたことを述べてみたいと思います。 そもそも司法(裁判制度)は、明治維新後並びに戦後も「お上」(国家あるいは司法機関)の独占事項であったということに異論を唱える人はかなりの少数派であると思われます。言うまでも無く刑事裁判については戦前の一時期と先ごろ開始された「裁判員制度」の時代以外に民衆(市民)が介在する機会はありませんでした。 私が感じたことを述べてみたいと思う分野は、司法制度の中の民事に関する分野でありさらにADR(民間調停)というまさに入江氏のブログのタイトルでもあり、現在ほとんど失われつつある「私的自治」そのものであります。「私的自治」が現代突然成立した新しい考え方であるかと言うとそうではありません、むしろそれは相当以前からわが国に存在した「庶民の知恵」ないしは「庶民の自治」に根ざした機能であると考えます。ADRという名のもとに「私的自治」を逆輸入せざるを得ないわが国の庶民の現状を少なからず愁うるものであります。 ADR(以下民間調停という)は、本来「庶民の知恵」ないしは「庶民の自治」による問題解決の手段、あるいは機関としての位置付けが妥当であると考えます。そうであるならば「自主交渉援助型調停」ないしは「同席調停」の考え方はまさに「庶民の自治」を基盤とした理想的な紛争解決手段だととらえることが出来ます。 しかしながら、理想的であるべき民間調停がなぜ庶民に受け入れられていないのでしょうか。わが国には問題解決方法ないしは人生観に「しかたがない」といって納得する歴史的背景並びに精神的土壌が存在します。 すなわち問題解決を自分自身のこととして考えるのではなくて、ある高みの人から(お上)諭された、指導された、提案されたので「しかたがない」、それに従って私の考えをあるいは人生をゆだねてみようと言った「他力本願」的な人事(ひとごと)としての解決方法を望む潜在的な欲求があるのではないかと思います。そう考えていくと調停に限って述べれば裁判所の民事調停(委員会)が潜在的な庶民の欲求をバランスよくかなえていると言ってよいと考えます。もちろん民事調停に関して現在批判があることも承知しています。ただ、そこそこの権威、別席調停による情報操作の可能性はあるものの調停委員による指導型調停そして調停に必要な安価な費用これら全てを考え合わせたとき民間調停を利用するかもしれない庶民のレベルは相当な自治意識と問題解決能力さらには経済力がなければ民間調停機関はほとんどの庶民にとっては利用しづらい機関であると思います。 そのように考えていくと自主交渉援助型調停ないしは同席調停はまったく庶民のニーズに合わない存在であり存在意義を問われるまでも無く必要の無い機関として形式的に存在を継続せざるを得なくなる可能性が大きいと考えます。もっと端的に述べれば民間調停は、ある一定以上の解決能力をそなえた経済的に豊な人々にとっての私的解決機関として存在を継続し得る可能性は否定できません。 民間調停(隣接法律職種による民事調停)が一般庶民にとっての私的自治の機関を目指すのであれば更なる議論と運営当事者としての研鑚を継続していく必要があると考えます。 |